読んだ本シリーズ 稲田豊史『本を読めなくなった人たち』
稲田豊史『本を読めなくなった人たち』から考える読書の現在
本を読まないのではなく、本を読めなくなっている。
稲田豊史さんの『本を読めなくなった人たち』は、現代の読書離れを「努力不足」ではなく、社会やメディア環境の変化として見つめる一冊です。
前編では、本書の紹介とあらすじを通して、なぜ私たちが長い文章に向き合いにくくなっているのかを考えます。
※今までのシリーズ

目次
- 『本を読めなくなった人たち』とは
- 作者・稲田豊史さんについて
- 本書のあらすじ
- 動画は○○しながら見ることができる
- 読書はもはや必要ないのか
- 次回予告:読書する力は幼児期から育つ
1. 『本を読めなくなった人たち』とは
『本を読めなくなった人たち』は、稲田豊史さんによる中公新書ラクレの一冊です。正式なサブタイトルは、「コスパとテキストメディアをめぐる現在形」。2026年2月9日に中央公論新社から刊行されました。出版社の紹介では、『映画を早送りで観る人たち』の続編として、コスパ・タイパの感覚が読書にどう作用しているのかを扱う本とされています。
今の時代、情報はとても簡単に手に入ります。
スマホを開けば、ニュースも動画もSNSもすぐに見られます。
知りたいことがあれば、検索すれば一瞬で答えらしきものが出てきます。
動画も倍速で見られますし、長い文章も要約で済ませることができます。
一見すると、私たちは昔よりも多くの情報に触れているように見えます。
しかし、その一方で、
一冊の本を最初から最後まで読む
長い文章をじっくり追う
すぐに答えが出ない内容を考え続ける
こうした時間は、少しずつ減っているのかもしれません。
Youtube、SNS、そして既存のメディア現代は情報が溢れすぎています。
エンターテイメントもそうで、様々な有料チャンネル、ネットのドラマがあり、とてもすべてを見ている時間はありません。
その中で、本の優先順位が低くなるのは当然ともいえます。
本書の面白いところは、「最近の人は本を読まない」と上から批判するのではなく、なぜ本を読めなくなっているのかを、現代の生活感覚に寄り添いながら考えている点です。
本を読めなくなった人たち-コスパとテキストメディアをめぐる現在形 (中公新書ラクレ 861)
2. 作者・稲田豊史さんについて
稲田豊史さんは、ライター・編集者です。1974年生まれで、横浜国立大学経済学部を卒業後、映画配給会社や出版社を経て独立されています。
代表作としてよく知られているのが、『映画を早送りで観る人たち』です。
この本では、映画や動画を倍速で見る人たちの背景にある「失敗したくない」「時間を無駄にしたくない」「効率よく内容を知りたい」という現代的な感覚が扱われました。
今回の『本を読めなくなった人たち』では、その問題意識が「読書」に向けられています。
つまり、
映画を早送りで観る時代に、本はどう読まれているのか。
あるいは、
そもそも本は、もう読まれなくなっているのか。
そんな問いを考える一冊だと言えます。
3. 本書のあらすじ
本書は、現代の読書環境を取材と考察によって見つめるノンフィクションです。
本を読まなくなった人、本と出合えなくなった人、本屋に行かなくなった人。
そうした人たちの声や、出版社・ウェブメディアを取り巻く状況を通して、今の時代に「読む」という行為がどう変化しているのかを考えていきます。
目次を見ると、第1章では無料ウェブメディア、第2章では本を読まない人たち、第3章では本と出合えない人たち、第4章では本屋に行かない人たち、終章では紙の本に集う人たちが扱われています。
ここから見えてくるのは、単なる「読書離れ」ではありません。
本を読む前に、そもそも本と出合う機会が減っている。
本屋に行かなくなり、棚を眺める時間も減っている。
無料で読める短い文章や、すぐに結論が分かるコンテンツに慣れてしまう。
その結果として、長い文章を読むこと自体が、以前よりも重たい行為になっている。
本書は、こうした現代の空気を丁寧にすくい取っているように感じます。
4. 動画は○○しながら見ることができる
私自身、このテーマを考えるときに大事だと思うのは、
本を読めない人を責めても意味がない
ということです。
「最近の若い人は本を読まない」
「スマホばかり見ているからだ」
「昔はもっと本を読んでいた」
こうした言い方は簡単です。
しかし、それだけでは問題の本質には届きません。
今の社会は「早く分かること」が重要視されています。
動画は短く、結論は早く、説明は分かりやすく。
もちろん、それ自体は悪いことではありません。
忙しい生活の中で、効率よく情報を得ることは必要です。
そして、本を読むという行為は、そもそも効率が悪いものです。
本とYoutubeの違い コスパ問題
本もYoutubeも簡単に言えば情報を得ることが目的です。
もちろんその情報を得ること自体を楽しむこともあり得ますが。
この本の中で、作者が取材している学生は言います。
「読書は『ながら』ができないからコスパが悪い」
これは読んで「なるほどそれはある」と感じました。
私もYoutubeをよく見ていて、ビジネスチャンネル、経済、歴史、ゲーム実況も見ています。
確かに、ご飯を作りながら、食べながら、何かしらの作業をしながら、それどころか、場合によってはゲームをしながらでさえ、Youtubeを見ることさえありました。
読書には当然このようなことはできません。
「本」は読むことに集中しなければならず「ながら」は基本的にできません。
確かにとてもコスパが悪い。
情報を得つつ、作業も進められる動画は「情報を早く、効率よく得る手段」としてとても有用です。
私は朝1時間ほどのウォーキングをします。
Youtubeの音声を流しながらウォーキングはできますが、本を読み「ながら」はできません。
情報を「効率的」に得る手段としては、まさに動画は最適です。
5.読書はもはや必要ないのか
私は毎日Youtubeを見ます。法律や税金のことなど本当に分かりやすく、かみ砕いてくれて
必要な情報をとても分かりやすく教えてくれます。
これもまた動画のメリットの大きな利点で、「分かりやすく」「効率的に」情報を得る手段としてもはや動画はかかせません。
しかし、それでも私は本を読みます。なるべく2日~3日に1冊くらい読むようにしています。
それは本を読んでいて、やはり読書も必要と感じるからです。
私にとっての読書の意味
それでは私にとって読書はどのようなものなのか。
効率のよい情報取得手段は動画に軍配が上がります。
もちろん読書は「趣味」「エンターテイメント」と言える部分もあります。
確かに、東野圭吾さんや綾辻行人さん、本屋大賞を取った本など時間を忘れて、読みふけることもあります。
しかし、そのエンタメ性はYoutubeでもなくはないでしょう。
私は読書というのは「思考のトレーニング」と考えています。
先ほど動画は「~しながら」見ることができる、コスパがよいという話をしましたが、この「しながら」というのは情報を一方的に流し、聞き取れるものを聞くという、情報に対して極めて「受動的」な姿勢になってしまいます。
人にもよると思いますが、情報を精査や思考することをあまりせずに、そのまま受け取ってしまう。
「考える」というプロセスを排除してしまいがちになってしまいます。
一方、読書は情報を得ようとするとこっちが「能動的」にならなければなりません。
なぜばら読むことに集中しなければならないからです。
ここに「情報をいったん自分自身で考える」というプロセスが入り込みます。
私は分かるまで、何度も読み返しますし、いったん戻って情報を確かめる場合もあります。
いったん読みとめてこの文の意味や、作者が伝えたいことを思考したり、別の著書に当たって情報の確認をしたりもします。
これは動画を聞き流ししながらウォーキングをするという行為の中では、少なくとも私の場合は不可能です。
この「思考するプロセスの介入」そして、その習慣(癖)をつけることこそ「読書」のよいところだと思っています。
これは映画や舞台にも私の場合は言えて、映画も舞台も「ながら」は無理なエンタメです。
しかし、能動的に集中してみるおかげで、舞台の装置や、演出家の意図、役者さんの演技などなかなか目に入りづらい情報も視野を広げてみることができます。
舞台に掲げられている絵画の意味や、役者の声の出し方、音楽が変わる瞬間の演出・・・集中してみているからこそ見えてくる面白さがあります。
またYoutubeやそのほかのSNSについていえば、おすすめに上がってくる動画は、すべて自分の「今までの」見ていた、見たことのある動画の関連動画があがります。
そのYoutubeやSNSのおすすめの「同じような」動画を見続けることは、そこに自分がなく、Youtubeに自身の思考が動かされてしまっているように感じてしまい、個人的にですが抵抗感を持ってしまいます。
子どもたちにとって読書の意義
私はこの業を行っていますし、教育者の面もあるとは思っています。
それでは子どもたちや保護者の方たちに読書の意義をどう伝えるかですが、前述した通りた読書が必要と言ったところで、今の社会では説得力に欠けてしまいます。本を読めない人を責めても仕方ないし、著書の中でも書かれているように、本を読まないからといって、一般教養のレベルが低かったり、礼儀がなっていなかったりと直結するわけではないからです。私もそう思います。
では、読書についてどう考えるのか。
いったん「情報を考える」習慣
現在、YoutubeやSNSなど子ども、大人関係なく広がり、読書は隅に追いやられています。これは統計でも鮮明に出ています。最近本を1冊も読んでいないと答える人は圧倒的に多くなっています。
ただし、私はこの現状を憂いているわけでも、どうにかしようとも思っていません。
時代の流れがありますし、著者が主張しているように「オートマ車が圧倒的主流でそもそも便利なのに、わざわざマニュアル車に乗るようなことは読書を趣味としている人であり、物好きな人」と言っていることに私も同意です。
しかし、本を読む意義、本を読むことによる思考のトレーニング、いったん考えるのプロセスを入れるということにそれなりの読書のメリットも感じています。
特に子どもには必要なことであり、経験させておきたいものとも思っています。
例えば、Youtube、SNSでも投資情報を見ることがあります。
しかし、私はその情報をそのまま一方的に受け手にならないようにしています。
それは情報の発信者が例えウォーレンバフェットであってもです。
ましてや、よくわからない人の投資情報をそのまんま信じることは決してしません。
投資の情報があるなら、財務諸表やチャート、数年の損益表を見るようにしています。いったん落ち着いて情報を「能動的に見る」というプロセスは「あっても悪くないものだ」と思っています。
この一方的に情報を受け信じるのではなく「情報を能動的に見る」「分析する」習慣は子どもにも決して悪いものとは思いません。
真偽が確かでない情報があふれる現代だからこそよりそう思います。
読書とは和式トイレのようなもの
このタイトルに違和感を持つ人もいると思いますが、私はこのように考えています。
今情報を得る手段の主流がショートを含めた動画であり、すぐに効率よく情報を受け取れるSNSです。
それはいわば「洋式の水洗トイレ」です。
これは家庭の圧倒的主流ですし、多くの人が便利さ快適さを感じています。ここは否定できない。
しかし、子どもは水洗・洋式トイレだけでしか用を足せないと困ることが出てきます。
男の子でしたら、男性用のトイレで用を足せた方が便利です。
田舎に行ったり、アウトドアに行ったりした場合、和式トイレやくみ取り式しかないところもあります。
その場合、やり方が分からない、抵抗があるということでは困ってしまいます。
どこに行っても困らないように、それこそ外国に行っても困らないようにするためには、トイレで用を足せる手段はたくさん持っておいた方が便利であり、いざという時に困らないでしょう。
情報も一緒で、いろんな手段に触れていた方が、私は困らないと考えています。
動画、Youtube、SNS、そして読書様々な手段があり、それぞれに良さや、問題があることを子どもたちは知っておくべきであり、実際に触れておくべきだと思っています。
情報があふれる時代だからこそ、動画はもちろん、読書からも情報を得ることができる、考えることができるとしたほうが子どもにとって有用なのではないでしょうか。
6. 次回予告:読書する力は幼児期から育つ
今回は、稲田豊史さんの『本を読めなくなった人たち』をもとに、現代人がなぜ本を読みにくくなっているのかを考えました。
本を読めなくなった背景には、スマホや動画だけでなく、コスパ・タイパを重視する社会全体の空気があります。しかし、読書とは本来、効率だけでは測れないものです。
時間をかけて読む。
分からないまま考える。
自分の中に言葉をためる。
そうした経験の中で、考える力養う。
次回の後編では、教育の観点から、
読書する力は幼児期にどのように育つのか
を考えていきます。
読み聞かせ、親子の会話、想像力、聞く力、待つ力。
子どもが将来、自分の頭で考え、学び続けるために、家庭でできることを整理していきます。